チェ・ゲバラ!10月9日命日!未だ衰えない人気の秘密!

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チェゲバラ

10月9日は、キューバの活動家「チェ・ゲバラ」が、バリビアでCIAに捕らえられて処刑された日です。

キューバ革命のリーダとなるフィデル・カストロに呼応して革命を成就させ、社会福祉事業の無料化を実現します。

医師であり生涯の喘息に悩まされながら、徹底した正義観と自己犠牲で「しいたげられた人」のために働いた革命家の人物像を再確認したいと思います。

目 次
・ゲバラの出生
・注射では貧困は救えない
・運命との出会い
・キューバ革命とゲバラ
・民衆より得た、絶大な支持
・戦果優勢
・最後の戦い
・革命政府の誕生
・新生キューバの建設
・アメリカの抵抗
・国民の人気上昇の裏で
・世界の貧困・搾取と闘う
・ゲバラの手紙
・ゲバラの日記
・CIAの追跡
・ゲバラの墓
・私利私欲に走らなかったカストロ
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ゲバラの出生

  • 本名:エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
  • 生年月日:1928年6月14日
  • 生まれた国:アルゼンチン
  • 19歳の時にブエノスアイレス大の医学部に入学
  • 25歳で博士号(医学博士)

 

注射では貧困は救えない

彼は在学中に約1年間ラテンアメリカ全土をオンボロのバイクで放浪し、南米社会の極端な貧富の差に社会の矛盾を感じ、どう生きるべきか思い悩みます。

特にインディオをはじめ、各地で少数民族が不当な弾圧を受けている現実に打ちのめされました。

『その頃私は医者としての個人的成功を夢見ていた。
しかしこの旅を通じて考えが変化した。
飢えや貧困を救うには注射だけでは不十分だ。
社会の構造そのものを変革せねば。
病人の治療より重要なことは、病人を出さないことだ』

彼は貧困層を取り巻く劣悪な住宅環境や、深刻な栄養不足を改善することこそが、自分の最優先課題だと考え始めます。

医学部を卒業後、ペルーの診療所に行くはずが途中でグアテマラの内戦に遭遇します。

グアテマラでは左派政権が大地主の土地を没収して貧しい農民たちに分配したが、これをきっかけに富裕層や米国に支援された反政府軍が攻撃を開始します。

ゲバラはグアテマラ政府軍の一員として戦うが敗北しメキシコへ脱出します。

 

運命との出会い

脱出したメキシコで運命的に出会ったのが、生涯の盟友となるキューバ人の青年弁護士、フィデル・カストロでした。

実に、医師と弁護士がタッグを組んだわけです。

カストロはキューバ国内で反政府運動に参加していましたが、厳しい弾圧を受けてメキシコに潜伏していたのです。

 

キューバ革命とゲバラ

1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていました。

腐敗しきったバティスタ軍事政権を打倒する為に、カストロは武装した同志82人と今まさに祖国に戻らんとしていました。

情熱的に巨悪と立ち向かうカストロの生き方に感銘を受けたゲバラは、軍医として彼らに同行することを決意し、1956年12月、キューバへの密航船に同乗します。ときにカストロ29歳、ゲバラ28歳の若さです。

 

民衆より得た、絶大な支持

キューバ上陸作戦、上陸時の激戦でメンバーの4分の3以上を失いますが、キューバ人の大半を占める貧農は、普段から徹底的に支配層から抑圧されていた為、

  • 彼ら革命軍が農村で食料や物資を調達する際、必ず農民に代金を支払った。(略奪が日常茶飯事だった政府軍とは決定的な差になった。)
  • 医者のゲバラは戦闘が終わると自軍だけでなく、負傷した敵兵にまで必ず治療を施した。(政府軍の中からもゲバラたちの仲間に加わる者が出た。)

なども、功じて戦闘の開始に乗じて支持するものが続々と現れました。

戦果優勢

  • 古今東西のゲリラ戦を研究し尽くしたゲバラは、政府軍の意表をつく様々な作戦を立案し、最少の人数で最大の戦果をあげ続けました。
  • カストロは情報戦の重要性も熟知しており、積極的に内外のジャーナリストに取材をさせました。(いくらバティスタが隠そうとしても革命軍の連戦連勝ぶりは民衆に伝えられ、ますます支持を得たのです。)

最後の戦い

  • 上陸から2年後、最終決戦の地サンタクララで、ゲバラは7倍の敵に対し、兵力の少なさを悟られぬよう複数の地点から攻撃を開始します。
  • 敵の退路を絶つ為に軍用列車を破壊しました。
  • パニックに陥った政府軍は雪崩をうって投降し始めます。
  • “ゲバラは捕虜を殺さない”という噂がこの投降を加速させました。
  • サンタクララ陥落の報を聞いたバティスタ将軍は、恐怖に駆られ国外へ逃亡しました。

革命政府の誕生

1959年1月2日、民衆の大歓声に迎えられ革命軍はついに首都ハバナへ入城し新政権を樹立させました。

首相に就いたカストロは若干31歳、国銀総裁のゲバラは30歳という、若者たちの政府のが誕生です。

新生キューバの建設

  • 文盲一掃運動
    (国民全員が文字を読めるようにするために、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変えて取り組みました。)
  • 教育を無償化
  • 医療の無料化
  • 土地を国有化
    (少数の大地主が独占していた土地を国有化し、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめました。旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦したのです。)
  • 国民全員の家賃を半額にする

アメリカの抵抗

キューバ全土の土地や電力、鉄道などの巨大な利権と、ハバナ歓楽街のブラックマネーを一度に失った米国は、革命政府に憎悪をたぎらしCIAを暗躍させ、爆弾テロ、米軍傭兵部隊の上陸作戦など様々な方法でゲバラたちを倒そうとしました。

1962年、米国の破壊工作にブチ切れたカストロは、ソ連(当時)の強力を得て核武装に踏み切ろうとします。『キューバ危機』です。

マイアミの目の前に核弾頭を突きつけられてはかなわんと、米国内はパニックになりました。

国民の人気上昇の裏

  • ゲバラが国立銀行総裁になって一番最初に、自分の給料を半分以下にカットしました。
  • 工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業を手伝いました。
  • サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、とにかく人々の中へ自ら飛び込んでいったのです。
  • これは彼にとって美談でも一過性のパフォーマンスでもなく、いつもの“ごく普通の光景”でした。
  • 仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲバラに、国民の間でどんどん彼の人気は高まっていきました。

世界の貧困・搾取と闘う

1965年、37歳になった彼は突如失踪します。

キューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かいました。

国家の要人という地位を投げ捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていったのです。

ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦しました。

紅茶セット

ゲバラの手紙

ゲバラはキューバを去る時、カストロに別れの手紙を送っていました。

『フィデル、僕は今この瞬間多くのことを思い出している。初めて君と出会った時のこと、革命戦争に誘われたこと、準備期間のあの緊張の日々のすべてを。死んだ時は誰に連絡するかと聞かれた時、死の現実性を突きつけられ慄然とした。後に、それは真実だと知った。真の革命であれば、勝利か死しかないのだ。
僕はキューバ革命で僕に課せられた義務の一部は果たしたと思う。だから僕は君に、同志に、そして、君の国民達に別れを告げる。僕は党指導部での地位を正式に放棄する。大臣の地位も、司令官の地位も、キューバの市民権も。今、世界の他の国々が、僕のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕には出来る。別れの時が来たのだ。
もし僕が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向うだろう、とりわけ君に。僕は新しい戦場に、君が教えてくれた信念、人々の革命精神を携えてゆこう。帝国主義があるところならどこでも戦うためにだ。永遠の勝利まで。革命か、死か』

ゲバラの日記

彼は毎日欠かさず日記をつけていました。

そこには“圧制者からの解放”という崇高な目的と同時に、仲間の裏切り、束の間の平和、食糧難に苦しみ高地をうろつき回る日々の様子が綴られていました。

『1966年12月24日、クリスマス・イブに捧げられた一日。(中略)最後にはみんなで集まって楽しい時間を過ごした。ハメをはずした者もいた』

『1967年5月13日、げっぷ、おなら、もどし、下痢の一日。オルガン・コンサートもかくやと思われる』

そして、文面の最後に、「今日は○○の誕生日」と、部下のことをいつも気にかけている一文が添えられていました。

これらは捕われの身となる前日まで書き続けられました。

CIAの追跡

そして運命の1967年10月8日、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮されたボリビア軍に捕らえられ、その翌日、全身に弾を撃ち込まれて射殺されました。

捕虜として収容所へ送られるのではなく処刑されたのです。

最期の言葉は上官の命令でゲバラに銃口を向け、ためらう兵士に叫びました。

「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃て!臆病者め!」

39歳の若さでした。

ゲバラの遺体は“ゲリラのリーダーが死んだ証拠”として、見せ物のように晒されました。

ゲバラの墓

1997年7月、処刑されたゲバラの骨が、ボリビアの空港の滑走路の下から見つかりました。

ボリビア政府はゲバラの埋葬された場所が“反政府運動の聖地”になることを恐れ、ずっと遺骨は不明と公式発表していました。

ところがゲバラの埋葬に立ち会った当時の関係者が、

「ワシも、もう歳じゃ。このままチェの埋葬場所を喋らず死ねば、永遠に謎のままになっちまう」

と公表したのです。

この年はちょうど没後30年にあたる年でした。

ボリビア政府は発想を転換し、観光名所にすることで外貨を得ようと発掘に全面協力、ついにゲバラの骨が発見されました。

遺骨はキューバに空輸され、ゲバラゆかりのサンタクララで国葬が行われました。

私利私欲に走らなかったカストロ

米国による長年の経済封鎖でキューバ経済は何度も破綻寸前に追い込まれました。

それでも医療費は無料、食料自給率は100%で餓死する者はおらず、人種差別もなく国内に悲壮感がない国が完成していました。

カストロの生き様は筋が通っていて、社会主義政権の中で私利私欲に走らなかった希少な例です。

CIAは“独裁者”カストロの個人資産を調査したが、あまりに少なくて驚いたといいます。

主な国家元首の年収(日刊ゲンダイ07/11/2)
シンガポール・リー首相…2億4600万円
アメリカ・ブッシュ大統領…4500万円
日本・福田首相…4000万円
英国・ブラウン首相…4000万円
ドイツ・メルケル首相…3800万円
韓国・盧武鉉(前)大統領…2400万円
フランス・サルコジ大統領…1680万円
ロシア・プーチン大統領…850万円
タイ・スラユット首相…480万円
中国・胡錦濤国家主席…53万円
キューバ・カストロ国家評議会議長…4万円(!)

 

【参照・出典】
http://www.argentour.com/en/argentina_personalities/che_guevara.php
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/guevara.html

OTARD-KEN

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